
この記事は、続き記事になってます。
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あの時、感動してたわけじゃなかった

「もう限界です」
課長にそう伝えて、ボクは始業から僅か一時間で工場を出た。
帰り道、ガソリンがほとんど空なのに気づいて、
慌ててスタンドに向かった。
給油のあいだ、空を見上げた。
冬の空なのに、やけに青かった。
いつの間にか涙が出ていた。
この仕事を始めてから、年末の空なんて見た記憶がない。
だから、あの時は珍しくて涙が出たんだと思っていた。
しかし今思えば、あの瞬間が一番悪かった。

療養生活、最初の仕事
帰宅したボクが最初にやったことは、病院探しだった。
限界なのは、既に分かっていた。
ただ、長期で休むなら診断書が必要だ。
そのくらいのことは、ボクだってわかる。
だから、布団に横になりながら診療内科を探した。
どうせ行くなら、今も通っている一番近い診療内科に電話をかけた。
ワンコールで出てくれた。
誰なのかわからないけど、話しはちゃんと聞いてくれた。
けれど、ひととおり話を終えると、
病院の人は「分かりました」とだけ言った。
……どういうこと?
あとで知ったのだが、ボクがその日に電話したのは「あくまでも仮予約」だった。
- 飛び込み診察はNG
- 電話で「すぐ来て」と言われるのもレアケース
- 一回で予約出来たら奇跡
人気のある病院だと、二ヶ月待ちなんてあるあるなんだそうな
この記事の内容を読ませてあげたいほど、当時のボクは無知だった。
ボクの診察がいつになるのか?
当時は、全く見当もつかなかった。
その間、どうやって会社を休めばいいんだろう。
疲れて眠りたいのに、頭の中はそのことでぐるぐるだった。
こうして、診療内科の診察が決まるまで。
ハラハラドキドキの休日が始まった。
どう休めばいいんだ?コレ
心療内科に電話した夕方、ボクは仲間に電話した。
仲間には、まさかの「甘え」の一言で片づけられた。
同情してくれるのかと思ったら、思いきり突き放された。
翌朝、かなり疲れていたんだろう。
ボクは8時半に目が覚めた。
本来ならもう遅刻の時間。
でも目が覚めた瞬間、我に返った。
「今日から会社に行かなくていいんだ」という安堵感と、
「これからどう過ごせばいいんだろう」という不安が入り混じった。
喜んでいいのか、落ち込むべきなのか?
自分でも何をしていいのかも分からない。
それが、最初にたどり着いた答えだった。
思わずYouTubeを開いて、「うつ病 過ごし方」と検索した。
しかし、どうやらお腹は空くらしい。
外に食べに行きたいけど、「会社の人に見つかったらどうしよう」と思って結局行けなかった。
代わりにパン屋でパンを買って帰った。
夜になっても、何をしていいのか分からず、
二階の窓から雪の降る道路をぼんやり見ていた。
当時、雪景色を眺めながら聴いていたのがこの曲の動画だった。
Moment in love / Art of Noise
今思えば、あの頃のボクはとにかくエネルギーがなかった。
だから、この曲がしっくり来た。
しかし、どう過ごせばいいのか悩んでいる間にも会社からは電話が来た。
会社からの電話は、現実を突きつける音だった。
当時のボクは、心が壊れたときに考えるべき3つのことを知っていたら自分を責めずにいたのかもしれない。
まぁ会社としては、有給の間だけ休ませようと思っていたらしい。
でも、メンタルを壊しているのだ。
有給の間に治るはずなんかない。
しかし、まだ初診日が決まっていないボクは圧倒的に不利だ。
恐る恐る、病院がまだ決まっていないことをボクは課長に伝えた。
「じゃあ、無理に出てこなくていい」と言われた。
突き放されたようだけど、無理強いされなかったことだけが救いだった。
病院から電話が来たのは、それから10日後だった。
しかし診察は、それからさらに二週間後になるとのこと。
しかも、初めての診察は、保護者同伴が条件。
仲間に冷たくあしらわれてから、
ボクは誰にもこの病気のことを話していなかった。
また、心が重くなった。
まとめ:壊れる瞬間は静かにやってくる。
あのときのボクは、休むことを“悪”だと思っていた。
周りに迷惑をかける。
ボクが休めば、誰かの負担が増える。
もともと生活に余裕のない仕事だったから、
「お金がなくなったらどうしよう」とも考えた。
でも、壊れる瞬間って、突然水があふれる感じなんだ。
言い換えれば、こんな感じ。
それまで我慢してきたものが、一気にあふれ出す。
だから、もうあなたの意志で制御なんてできない。
でも、それでいいんだ。
あなたが悪いわけじゃない。
あなたは、我慢してきた時間が長かっただけ。
あふれた水を無理に戻そうとしなくていい。
少しずつ乾いていけば、また歩けるようになるから。







